釈迦内

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釈迦内guest

「釈迦内柩唄」メッセージ

人はみな平等だ!仏さんだ!

愛知専門尼僧堂・堂長
塩尻・無量寺前住職
青山 俊董

 「戒名ってなんですかいな?」受戒の説戒師に招かれてゆく途中、タクシーの運転手が質問してきた。「たとえば車を運転するに当たって、急ぐときは信号を無視しても走りたかったり、右折禁止、すぐなのにぐるッとまわらねばならないか、と思ったりするでしょう。わがままな自分の思い通りにしたら交通事故をおこしますね。気ままな私の思いはソっと横において、交通ルールに従って運転して初めて無事故運転ができるように、私の人生という大道を、私という車を運転してゆくに当たっての人生道の交通ルールが天地の道理、これを仏戒という。たった一度のやりなおしのできない人生を、気ままわがままな私の思いを先とせず、天地の道である仏戒にしたがって生きていきましょうと、ふんぎりをつけたときいただくのが戒名なんです。ですから死んでからでは遅い。聞く耳のあるうち、聞いて実践する体のあるうちに一刻も早く聞き教えを実践することによって、たった一度の生命の今を悔いなく生きてゆこう、自分を照らし導いてくれる鏡として頂くのが戒名なんです。」
「へえ〜そうですか。戒名は生きているうちにもらうものですか。ところで戒名に序列があるんですかいな?」
「生きているうちにいただくのは四字までで、院号とか居士とか上下へつけるのは、死んだとき、その人の一生の生き方に対して贈られるもので、お金で買うものではありません。戒名にもいろいろあるけれど、序列があるのは生きている側のことであって、仏さまの前へいったらみな平等です。それに死んでまで見栄をはらなくてもいいでしょう。」こんな会話を交わしたことであった。
 「釈迦内柩唄」では、「死ねば特も並もねえ(焼場のカマ)、坊さんもジェンコ(銭)のいっぺいある家さは赤とか紫の衣っこ着て…人はみな平等だ。灰になるんだ。仏さまになるんだ」と、ふじ子をして叫ばせているのは、そのまま作者の水上勉先生の叫びだ。
 水上先生とは何度か対談する機会があったが、「釈迦内柩唄」に登場する父親は水上先生のお父さんがモデルで、主人公のふじ子の叫びは水上先生自身の叫びであったことを、遅ればせながら、この度の公演によって知ることができた
。  今日でも階級差別の厳しいインドにあって、2500年前に釈尊は徹底平等を説き、生命の尊さへの自覚を説かれた。

 生まれによってバラモンなのではない
 生まれによって非バラモンなのではない
 行為によってバラモンなのである
 行為によって非バラモンなのである    [経集]

 ここでバラモンと表現されている中身は聖者というほどに理解しておいたらよいであろう。インドにおけるもっとも代表的な四階級の中の最高位がバラモン階級ということになっている。要するに、生まれによって貴賎があるのではない。行為によって貴賎が生じるのだというのである。行為といっても、たとえばこの戯曲を例にあげるなら、死体を焼く行為が賎しくて、法衣を着てありがたそうなお経を坊さんが尊いいうのではない。同じ火葬場の仕事をしていても、天皇さんも百姓も同じに仏さんと拝み、心こめて焼くふじ子の父親はここでいうバラモンであり、心づけの多少によって扱い方を変えるような人は卑しい人と呼ぶのである。法衣を着てお経をよんでも、たとえばお布施の多少で法衣を変えたり態度を変えたりするようでは、とてもバラモンとは呼べない、というのである。
  釈尊はこの四姓をインド平野を流れるガンジス河やインダス河にたとえ、その河がひとたびインド洋に流れ込んだら全く一つの大海水になるように、人は本来すべて絶対平等なんだと説き、その実践に勤められた。その教えを伝え、実践せねばならない仏教徒が、長い歴史の間、時代の流れに流され、自らもいろいろな形での差別をし、又は世間のさまざまなる差別の現状を黙認してきた。そのことへの激しい怒りと、平等への叫びを、あたたかい人間愛で包みながら唄い上げた水上先生のお心を、まっすぐに受けとめ、スクリーンを通さず、文字通り体当たりの舞台で、直接に人々にかたりかけて下さる希望舞台の方々に、心からの拍手をおくりたい。
 希望舞台の前身ともいうべき新制作座(真山青果の娘・美保主宰)が上演した「泥かぶら」を観たのは何十年前のことになろうか。そのときの感動は今も脳裏に鮮やかにのこっている。水上先生のご縁に重ねて新制作座ゆかりの劇団ということもあり、はからずも「釈迦内柩唄」を観る会の会長を引き受け、それも全国で400回目という節目の公演でもあり、またこの上演にあたって、ふだんではなかなかご縁のむすべない多くの方々と、実行委員会とう形で勝縁をむすばせていただくことができたのも、私の人生においてのすばらしい財産となったことを喜ぶのである。
 水上先生の悲願、それを受けて立つ劇団の皆さまの悲願が、時に激しく、時にやさしく、より多くの人々の心にしみ通り、お互いの心の深みに根づよく生きつづけている差別の心の闇を照らし出し、光へと転ぜらんことを願って止まない。
(「釈迦内柩唄」公演によせて)