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希望舞台の出会い

ミッキーと呼ばれた戦争孤児

神奈川県茅ヶ崎市

 駅ビルのエスカレーター正面のベンチに、両膝を揃え両手を膝に乗せ、真面目そうな、物静かな年配の男性が座っていた。誰かを待っている様子だった。
今年と同じ様に暑い暑い七月の茅ヶ崎駅だった。
 私はHさんとの約束の時間よりまだ早いけれど、そのベンチの横の指定された喫茶店に入り喉を潤していた。やおらHさんが現れたらその男性も入って来た。それが平山良吉さんとの出会いだった。
 平山さんは戦後の上野駅の地下道で「浮浪児」として暮らしたことがある。
 自分の体験とも重なり「焼け跡から」の茅ヶ崎公演に加わって下さった。
 平山さんは幼い頃母親と死別、父も四~五才の頃蒸発。親戚か誰かの家に引き取られるが体中におできが出来半年の入院となった。退院するとそのまま養護施設に送られた。八歳のときの事である。昭和二十年三月、学童疎開で栃木県の塩原へ、終戦と共に再び施設に入れられるが二
ヶ月で脱走、上野の地下街での浮浪児暮らしとなる。十才になっていた。
 ある人から品川の米軍第八補給部隊のキャンプに行けば食料にありつけると聞き、行ってみた。自由に出入りしたが咎められなかった。
 ある時、若い兵士に拾われた。兵隊達のあいだに挟まって寝た。ベットも宛てがわれ大人の軍服を小さくしてくれた。ミッキーと呼ばれる様になった。週に一度は上官が見回りにくるが、兵士達は十歳の平山少年を「我々のマスコットです」と云った。上官も容認してくれていた。兵士達が出かけるときはトラックやジープの横に乗って一緒に出かけた。キャンプには千人程の兵士がいるが二年で半数は入れ替わる、その都度平山少年は「申し送り事項」として新しい兵士達に引き継がれた。勿論中には「憎いジャップの子」として憎悪を示す兵士もいた。中学生になる十三歳の時、学校に行く様にと日本人牧師夫妻に預けられた。基地の中では入学手続きが出来ないからだ。今、平山さんは七十八歳になる。セピア色になった明るく笑う兵士達との写真が大切に保管されている。
 昨今、沖縄での米軍基地の兵士の許す事の出来ない事件が記憶に新しい。しかし孤児の平山少年を大切にしてくれた兵士達もかっていたのだ。
 国家間の利害の軋轢の底には共に人としての同じ血が通い合っている庶民の姿がある事を思わずにはいられない。

記・玉井 徳子(2013.08.12発行 つうしんNO.52より)